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「慈悲の瞑想 人生を開花させる慈しみ(フルバージョン)」(アレボムッレ・スマナサーラ 著)を読んで知ったこと、わからないことなど、、、

公開日: 瞑想, 成長・発達, 気になる本

先日、「自分を変える気づきの瞑想法」(アルボムッレ・スマナサーラ著)を読んで、その時、気になったことなどをブログに書きました

「自分を変える気づきの瞑想法」(アルボムッレ・スマナサーラ 著)

「自分を変える気づきの瞑想法」(アルボムッレ・スマナサーラ 著)

この本を読んで、自分の覚え書きのために書いたブログです

ちなみに、そのブログはこれね!
「自分を変える気づきの瞑想法」(アルボムッレ・スマナサーラ著)を読んで知ったこと、わからないことなど、、、

私、瞑想をやるようになって3年くらいになります
初めは5分座ることから初めて、10分、15分、、、と時間が延びてきて、今年になってからは、45分から1時間座ってます

瞑想って、静かに座るものだ!って思ってました
私の瞑想のイメージは、『座禅』のイメージ、、、

ただ、最近、瞑想もいろいろある!らしい、、、ってことを知りました
そんなとき、友達かいたFB記事が流れてきて、そこには、アルボムッレ・スマナサーラ長老による
・自分を変える気づきの瞑想法
・慈悲の瞑想 人生を開花させる慈しみ(フルバージョン)
が紹介されていました

「慈悲の瞑想」「自分を変える気づきの瞑想法」(アルボムッレ・スマナサーラ 著)

「慈悲の瞑想」「自分を変える気づきの瞑想法」(アルボムッレ・スマナサーラ 著)

もちろん、両方読んでみることにして、先に、「自分を変える気づきの瞑想法」を読みました
で、次ぎに、「慈悲の瞑想 人生を開花させる慈しみ(フルバージョン)」です

この手の本、読んだからといって、どうなるものでもないように思っています
瞑想を実践する中で、迷ったり気になったら読み返して、また、実践、、、
そして、ん?と思ったら、また読んで、、、

そのとき、自分が、初めて読んで気になったこと、わからなかったことなどを書き出しておくと、何かと助かるんじゃないか?って思って、先に読み終わった「自分を変える気づきの瞑想法」で、覚え書きのブログを書きました

「慈悲の瞑想 人生を開花させる慈しみ(フルバージョン)」を読んで知ったこと、わからないこと、大切だと思った事

そして、今回、同じように「慈悲の瞑想 人生を開花させる慈しみ(フルバージョン)」の覚え書きブログを書いていきます

書き方としては、前回(「自分を変える気づきの瞑想法」を読んだ時)と同様に

・知ったこと
・わからないこと
・大切だと思うこと

に分けて書いていくことにします

「慈悲の瞑想 人生を開花させる慈しみ」を読んで知ったこと

・私たちは、なんでもかんでも、自分の都合で敵と味方に分ける
大きくなると他者のことも知るようになりますが、それは「私とどんな関係があるか」という角度でのみ知っているにすぎません
自分との関係ありきで、自分にとって都合のよい関係であればその人々はよい人間で、自分にとってちょっと都合の悪い関係であればその人々は悪い人間
敵と味方に分けて、「生きていきたい、生きていきたい」だけで頑張ってしまうのです

・私たちは自我という錯覚・幻覚にとらわれている
「あいつが私を殴った」というのは、幻覚の世界なのです
心理の世界では、ただ物事が生じては消える、という流れがあるだけです
「私」といっても、眼耳鼻舌身意に色声香味触法という情報が触れて、絶え間なく感覚が流れていくだけ

・「私は」は、こころにとっては便利な方便
いつも、同じ、「私は」という言葉を使っています
「私は」聞いている、「私は」見ている、「私は」しゃべっている
そこで脳が、「これは便利だ!」ということで、「自我」という錯覚を作ってしまうのです
「私は」という一言で、すべてのバラバラな情報を一カ所に束ねることができるというわけです
こころにとっては、便利な方便です
でも、大きな間違いなのです
バラバラの情報に「私」という一つのラベルを貼ったからといって、情報が一つに固まるわけではありません
情報は流れるものなのです

・「慈悲の瞑想」は、罪を犯さずに生きるための方法
解脱を目的とするのであれば、眼耳鼻舌身意の六根から観て「自我の錯覚」を破ればいいということになります
それなのに、なぜ、お釈迦様は「慈悲」を教えたのでしょうか
それは、生命は無数にいて、そのすべての生命たち誰もが解脱に達するということは、どうもなさそうだからなのです
たとえ解脱に達することはできなくても、罪を犯さずに生きるためには、慈悲の瞑想を実践するしか方法がないのです

・自己犠牲は修行にならない
他の生命に優しくするとは、たとえば、蚊に刺されそうになったときに「自分の身を守らないで存分に蚊に身体を刺させなさい」ということではないのです
サメに優しくするために「人間を食べたければ、どうぞ私を食べてください」と身を差し出すのでしょうか?
死んだら智慧も開発できないし、悟ることもできません
自己犠牲は修行にならないのです

・忍耐とは、理解して耐え忍ぶこと
忍耐とは我慢することではないのです
忍耐とは、理解して耐え忍ぶことです

・「愛着」とは「慈しみ」の反対
愛着とは一つだけ選んで、あとはすべて追い払おうとする世界です
すべてに愛着を持つことはできないのです
愛着するならば、本当は全生命に、全宇宙に愛着しなければいけないはずです
完全に、一切を包括して、「私のものだ」と思ってみても構いません
でも、そんなことは不可能でしょう
ですから、「愛着」とは「慈しみ」の反対なのです

・肉体を忘れて「こころ」を見る
誰でも私の子供、私の母親、私の父親と思えるようになったら素晴らしいのです
これを邪魔するのが、肉体・身体を見ることです
肉体を忘れて生命を見ましょう

・肉体を通してこころを見る
肉体を見ないで、肉体を通してこころをみるのだということです
こころを、命を見るのです
肉体は変わっても命は同じです
クマを見て怖いと思っても、怖いのは肉体なのです
命としてみれば、クマは怖くありません
人間とじゃれて遊びますから、まったく大丈夫です
だからといって、野生のクマと遊ばないで下さい
向こうも訓練しなければいけないのですから、
クマは慈悲の瞑想をしていないから、気をつけた方がいいのです

・悲(karuna)とは「他者の苦しみをなくしてあげたいという優しさ」
悲(karuna)とは「他者の苦しみをなくしてあげたいという優しさ」です
そして、智慧がなければ karunaは成り立ちません
私たちは知恵がないので、苦しんでいる人を見て「かわいそう、助けましょう」と思い、「あなたは別に大丈夫だ」という風に幸福な人をバカにするのです
これは、ボランティアをやっている方々の間によく見受けられる現象です
智慧のまなざしで見ると、誰もが本当にかわいそうなのです

・慈悲喜捨とは「見返りを求めないこころ」
人間のこころは汚れています
人間は自分の利益しか考えません
生命はやはり自分の利益だけを考えて行動してしまう
これは仕方がないことなのです
それに対して、慈悲喜捨とは「見返りを求めないこころ」なのです

・慈悲喜捨とは生命との関わり
慈悲喜捨とは生命との関わりです
慈悲喜捨で何かするというのは、義理でも義務でもありません
それはサービス(奉仕)のようなものです
悟っている人には、何もいりません
見返りは期待しません
悟っていない人には、何かしら期待があるのです

・いきなり「捨」を実践すると堕落する
慈悲喜捨は順番に実践していくしかありません
いきなり「捨」を実践しようと思うと、物事に無関心で、尊大な人間に堕落してしまうおそれがあります

・我慢はストレスフル、忍耐はストレスレス
冬は外に出たら寒いですね
そんなものです
我慢する人はぶつぶつ文句を言いながら、外を歩きます
早く暖かいところに逃げたい、今の状況から離れたい、というストレスを抱えているのです
忍耐の場合は、「冬の風が冷たいのは当然だ」と現実を認めるだけです
それで、何のストレスもなく冬の道を歩くのです
我慢するというのは、怒りの一種です
ですから、我慢するとストレスが溜まります
忍耐することにはストレスがありません
我慢する人も忍耐する人も、結果として冬の道を、寒さを感じながら歩きました
しかし、我慢した人には寒さの苦に加えて精神的な悩みも起きます
一方、忍耐する人の場合は冬の寒さを感じた苦だけで終わるのです

・人格向上が「忍耐」の狙い
よりよい人格を目指して、自分の短所を取り除くことを目指して、苦労にめげず進むことが「忍耐」です
「今、苦しんで頑張れば(今、頑張れば)、あとで楽になります」というのは、俗世間的な発想です
それはニンジンをちらつかせることであって、「忍耐」とは違うと言わざるを得ません

・「我慢する」とは自我の正当化
何事も自我の期待する通りにはいきません
因果法則がありますから
そこで冷静にいることが忍耐なのです
年を取ることは因果法則であって、それを気にしないということが忍耐なのです
年を取るのは嫌だ、足が痛くなることは嫌だ、これは何とかならないのかと思う人は、我慢しなくてはいけません
「我慢する」とは、自我の錯覚から起こる感情を正当化する働きなのです
その結果は苦です

・諸行無常をわかることが智慧
「すべは無常である」ということがわかれば、それが智慧です
智慧が現れると今の思考パターンがすべて変わってしまうのです

・他の生命にとるアプローチは、唯一「慈しみ」
すべての生命は幸福を目指して生きているのですから、慈悲の気持ちころがあるべき気持ちであって、他の気持ちは正しくないと理解します
生きる場合は、すべての生命と一緒に生きているのです
では、他の生命に対してどんなアプローチをとるべきですか?
それは、唯一「慈しみ」です
その生命はかわいい、あの生命はかわいくない、そんな差別は成り立たないのです
そのような理解にたどりついたら、智慧が現れているのです

・「人を幸せにしてやるぞ」は大きなお世話
(慈しみのこころは)「人を幸せにしてやるぞ」というような大きなお世話、余計なおせっかい、自我を強化することではありません
そうすると相手は「そんなことは頼んでない」「放っておいてください」という言うかもしれません
慈悲の瞑想は、慈しみという自分の気持ちを育てる訓練なのです
これは想像を超える途轍もない力になります

・「自分はいない」「私は虚空である」
(「困ったな」という自体が現れたときの)答えとなる処方箋は、「自分はいない」と思うことです
「私とは空(くう)であって、存在しない」と理解する
「空」の意味は「虚空」(中がない、カラ)ということです
「ない」のです
それを念じてみる
これにはレベルがあります
「自分は空(くう)である」という思いを確立することは超越した精神状態なのですが、まずは、俗世間の知識レベルから始めなくてはいけません

・一時的に投影される「自分」
自分は基本的にいないのですが、たとえばここに突然子供が入ってきたとします
私はその子が見える・聞こえるということで、人がいると認識します
そこで一時的な自分が現れるのです
相手に適した自分というのが、一時的に投影されるのです
しかし、問題は起こりません、大丈夫です
子供という認識が現れたら、それに合わせて必要な対応・一時的な自分を投影する
その子が消えたら、投影した自分も消えてしまう
持ち運ぶ必要はありません

・「自分」とはまっさらなスクリーン
「自分」とは、どんな映像でも映すことができる白いスクリーンでなければいけない、ということです
もともと、スクリーンに映像があったら、どうなるでしょうか?
よく言う「自分を消す」というのは、「白いスクリーンになれ」というような意味なのです

・生きるとはその都度、各生命に対して一時的な自分投影すること
私たちは、死ぬまで世間で過ごさなくてはいけません
生きるということは、他の生命と関係をもつことです
その都度、各生命に対して一時的な自分を投影できるようになってください
生命との善い関係の秘訣は、それだけです
外の世界、世間を直そうとすることではありません
スクリーンに貼りつけている画像(自己イメージ、自我)を消してください

・差別をなくし、区別能力を育てる「慈悲の瞑想」
慈しみが出てくると、あの人は偉い、この人は良くない、などという差別的な見方は出てこなくなるのです
しかし、なんでも平等で均等に見えてしまう、というこでもありません
人の性格の差が理解できるようになるのです
要するに、差別は一切ないが、見事に区別することができます
おのおの人が自分の持つ性格によってどのように生きているのか、ということも理解できるようになります
区別できることは、智慧の働きです
慈悲の実践は、その智慧を育ててくれます

・「自分を直す」ではなく、「きちんと観る」こと
誰だって問題を抱えていますよ
ただ淡々と、「問題はこれだ」と発見すればいいのです
問題が見えてくればくるほど、問題は消えていきます
無理をする必要はありません
けっして、自分を直そうとする必要はありません
ただ、「問題は何なのか?」と見るだけです
見る場合は、しっかりと自分の経験として見てほしい
そして、問題が見えたら、見えたぶんについては問題が自動的に消えていくのです

・「自分を直す」という発想は自我からの錯覚
真理の世界では、「自分を直す」ということ成り立たないのです
「自分を直す」という発送自体も自我の錯覚から出てくるものなのです
ですから、自分を直すどころではなく壊す結果に終わってしまいます
真理の世界では、「見る(観る)」「きちんと観る」「直接観る」、それで終わりなのです

「慈悲の瞑想 人生を開花させる慈しみ」(アレボムッレ・スマナサーラ 著)

「慈悲の瞑想 人生を開花させる慈しみ」(アレボムッレ・スマナサーラ 著)

「慈悲の瞑想 人生を開花させる慈しみ」を読んでも、わからないこと・理解しがたいこと

・心の本来の姿は、慈悲からはほど遠い、恨み節の世界
その現実の中で、世直しのために駆け回るのではなく、「こころとはどのようなものか」と研究するのです

・覚えているべきは優しくされたこと
人にいじめられたことやい嫌な思いをさせられたことなではなく、優しくされたことだけ覚えておけば、人生は本当にラクです
しかし、頭ではわかっていても、私たちの「こころ」はそのようにできていないのです
ですから、調教、制御、躾ということが不可欠となります

・すべての問題の原因は「私」
すべての問題の原因は「自我」という幻覚・錯覚です
あるといっても幻覚・錯覚ですあkら、「自我」といえるものが実際にあるわけではありません

・輪廻に怯えを感じなさい
「いい加減、輪廻をやめることにしなさい 怯えを感じなさい」とお釈迦様は説くのです
みんな、怯えをなくしたいでしょうが、仏教は逆に「(輪廻に)怯えを感じなさい」と言うのです

・慈悲の瞑想をして幸せを感じる」というのは、自分の利益を求めることになる
悟っていない人には、何かしら期待があるのです
例えば「慈悲の瞑想をして幸せを感じる」というのは、自分の利益を求めることになるでしょう
一般人には、、見返りを求めることなしに実践はできません
理論的に、見返りを期待しないアプローチもあると覚えておいてください
見返りを期待せずに実践する人は、幸せになりますそれはただ行為に対する結果が出るだけの話です
相手側から何かを奪ったわけではありません

・預流果(よるか)から不還果(ふかんか)まで
まず「自我の錯覚」が消えたら悟り(解脱)の第一段階・預流果(よるか)です
自我の錯覚が消えても、自分のこころにある欲と怒りが、他の生命にとって迷惑だと気づきます
それで、欲と怒りが減ったら悟りの第二段階・一来果(いちらいか)で、欲と怒りがなくなったら段三段階の不還果(ふかんか)になります
そのようになれば慈悲はしっかりと確立します
悟りの段階で言えば、あと一つ残っていますが、不還果(ふかんか)の聖者は次の生まれで必ず、最終的な解脱である阿羅漢果(あらかんか)に達します
それが慈悲の瞑想のすべてです

・慈悲の瞑想をしてヴィパッサーナ瞑想に入る
ヴィパッサーナ瞑想というのは、ありのままに物事を観察する世界です
その場合、人のこころの影響を受けてしまうと、ありのままの観察ができなくなってしまいます
慈悲があると、人の影響を受けたとしても、修行を支える影響になるのです
そういうことで、慈悲の瞑想をしてヴィパッサーナ瞑想に入ったほうがやりやすいと思います

「慈悲の瞑想 人生を開花させる慈しみ」を読んで、大切だと思うこと

・こころは空気のように
空気というのは、まったくトラブルを起こしません
どこにでも入っていけます
私のこころも、あの人は男、あの人は女、あの人は子供、あの人は動物など、そういう区別なく、空気のようにつながらないといけません
たとえば人と話しているうちに気分が悪くなったら、「いえ、こころは空気のように」と、すぐ立て直します
誰かがわがままを言い張ると、ちょっと怒りを覚えたりもします
「なぜ、あなたはわがままばかり?」と
しかし、「いえ、その人がわがままを言うのは、その人の自由です」と、私はその影響を受けないで、空気のようにいるのです
そうやって「空気のように」というたとえで、すべての慈悲の瞑想は完成するのです

・慈悲を邪魔するのはエゴの錯覚
慈悲を邪魔するのはエゴの錯覚です
エゴの世界にいるから「慢」が出てくるのです

・「慢」とはを自分を評価するこころ
「慢」とは自分を評価するこころです
必ず、他の人と比べて評価します
本当は、他人との比較は不可能です
海の水は比較できますか?
おまえより私の方がすごい、私の方がだめだなどと海の水の一滴ずつが主張し合っていたらどうでしょう?
何の意味もありませんね
誰とも比較しない気持ちが生まれたら、そこに智慧も慈しみも完成しているのです

・・・・・・・・・・・ってなことで、今日のブログは、私の覚え書きです
ですので、「慈悲の瞑想 人生を開花させる慈しみ」(アルボムッレ・スマナサーラ著)を読んで、瞑想に関して、私の今後への参考、指針を抜き書きしています

もし、最後まで、今日のブログを読んでいただいて、気になることがあったら、ご自身で、「慈悲の瞑想 人生を開花させる慈しみ」(アルボムッレ・スマナサーラ著)を読まれることをおすすめします
そして、瞑想をやってみられることを、、、(^o^)v

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